今日の1本 主人公は僕だった(2006)gattoのレビュー
主人公は僕だった 映画レビュー
以前、ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンという筋金入りの演技派二人が共演した『新しい人生のはじめかた』を観たとき、この映画で二人が共演を果たしたきっかけは、映画『主人公は僕だった』で意気投合したからだということを知り、ずっと気になっていた。
この映画は完全なる大人のファンタジーである。
監督は、『チョコレート』や『ネバーランド』で名匠と呼ばれるようになったドイツ出身のマーク・フォスター。
映画の始まりは、まるで後ろに笑い声が入るアメリカのファミリー向けドラマよろしく、遊びの要素が皆無で、真面目で几帳面な国税庁の会計監査員ハロルド・クリック(名前も几帳面)の、まったく毎日と一寸も変わらない朝がナレーターの声入りで開始される。
歯磨きの数まで決まっている彼の毎日は、実に殺風景だ。
ある日彼は、可愛らしいパン屋さんを営む女性のところに仕事で訪れる。
オーナーのアナは店のやわらかい雰囲気とは全く違うタトゥーだらけの姿で、国税庁の回し者であるハロルドに対し必要以上に冷たい態度をとった。
そして、「わざと税金を滞納しているのよ!」とまったく悪びれない。
しかし、このとき、ハロルドを稲妻が直撃したのである。(地味に)
ハロルドは、自分の人生ではその存在さえも視界に入らなかった「世の中のルールを恐れず、道のない道で太陽を浴び皆に愛されながら前進する女性」に出会ってしまったのだ。
しかし、ある日、ハロルドがいつものように殺風景な朝を開始すると妙なことが起こった。
淡々とハロルドの動きをこと細かに映画鑑賞者に面白おかしく伝えていたナレーターの声が、どうやらハロルド本人にも聞こえてしまったのだ(!?)。
自分が何をしようとしてもナレーターに説明されてしまう。
「あんた、一体誰なんだ?!」と天に向かって叫んでも、なにも答えは帰って来ない。
そこから、この物語はいっきにファンタジー化する。
実はこの声の持ち主、悲劇を描かせたらピカ一でありながら現在スランプ中の作家が新しい作品を考えている声だったのだ。
そう、おかしなことに、その物語はフィクションのはずなのに、実在する男の人生とリンクしていたのである。
ハロルドは、「それは幻聴だからあなたは統合失調症なのよ」と押し通そうとする精神科医に、聞こえてくる声が発する言葉がやけに“文学ちっく”であることを伝えると、サジを投げた精神科医から文学に詳しい大学教授を紹介される。
しかし、事態は深刻である。
なんと言っても、その作家が描く物語はほぼすべてが悲劇。
主人公が死んでしまうという結末がお決まりなのである。
そして、ハロルドは、弱者に優しい愛しのアナーキスト、アナとの恋物語を進行しながらも、自分を死に追いやると思われる作家を探し出そうとする…。
その人気作家をエマ・トンプソン、大学教授をダスティン・ホフマン、主人公の会計監査員ハロルドをウィル・ファレル、パン屋のオーナー、アナをマギー・ギレンホールが演じる。
そして、出版社の社員役にクイーン・ラティファ。
彼女は『ボーン・コレクター』以来のファンだが、相変わらず魅力的だ。
途中、クソ真面目でクソ几帳面、自分の行動になにひとつ衣をかぶせない「そのまんま男ハロルド」が、愛するパン屋の女性のもとに駆け寄り小麦粉を差し出したときの不器用さに泣けた。
この映画は、いつものようにコミカルじゃないウィル・ファレルの新たな魅力をつくり上げたのではないだろうか。
そして、それを目にしたとき、アナの髪の毛がフンワリ風になびいた情景がとても好きだ。
その風が心を動かす波動かと思えるほど、マギー・ギレンホールによる繊細な心の動きの演技も良かった。
スランプ作家のちょっと“いっちゃってる神経症”なエマ・トンプソンの演技も素晴らしく、文学に忠実な教授役ダスティン・ホフマンの淡々とした演技も味わい深かった。
最後のほうで、大学教授が「これは主人公が死ぬから傑作になるんだ。死ななければ凡作になる」というようなセリフがある。
これは、監督マーク・フォスターの言葉なのかもしれないと考えると、いかに彼がユーモアをもち温かい人物であるかが計り知れる。
その意味は観れば気付いていただけるのではないだろうか。
不器用さが好きなひと、是非ご賞味あれ。
映画と現実の狭間でROCKするgattoでした。
主人公は僕だった
監督:マーク・フォースター
出演:ウィル・フェレル、ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソン
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