メタルヘッド/映画あらすじ・レビュー(「ザ・ウォーク(2015)」のジョセフ・ゴードン=レヴィットがメタル野郎を演じる、ある意味かなり衝撃的な映画)
メタルヘッド あらすじ
母親を事故で失った悲しみから立ち直れない少年は、やはり、妻を失い悲しみに暮れる父と祖母の家で暮らし、鬱蒼とした日々を送っていた。そして、もう一人は希望の光が見えなくなり、人生さえも見失った女。そんな2人の前に突如現れたのは、デリカシーのかけらもない、過激で下品なヘッシャーという男。勝手に少年が住む家の住人になったヘッシャーは、破壊的な行為を繰り返しながら、いつしか関わる人々の心を過激に動かし始める。
メタルヘッド レビュー
みぞおちがキュ~っとなる眼下の景色が話題の映画「ザ・ウォーク(2015)」。1本のロープの上をバランス棒のみで歩くジョセフ・ゴードン=レヴィットを見ていて思い出した映画が、この「メタルヘッド(2011)」だ。高さ411メートルを命綱なしで綱渡りするのも驚愕だが、粗暴で下品極まりないヘッシャーというキャラクターで押しまくったこの映画「メタルヘッド」も、ある意味【驚愕】だ。
「荒療治」という言葉があるが、まさにこの映画で起こったことが、それにピッタンコ当てはまる。もしも、順風満帆な人生を送っている人の前にヘッシャーが現れて、勝手に家に住み込んだら大事件だ。間違いなく、即行通報だろう。いや、まてよ、元気がない人でも、普通は通報するんだがな。
母親を事故で失った子供の悲しみは計り知れない。しかも、この物語の少年T.J
.の場合、そんな時ほど支えて欲しい父親までもが、致命的なほど活力を失っている。おまけに、執拗ないじめまで受けているのだ。子供とはいえ開き直りたくもなりそうだが、日常はそんな彼を平気で置いてけぼりにする。
そして、それは、人生を見失った女も同じこと。何もかもうまくいかない女は、自分だけが見捨てられた気分になって、ただ泣くしかないのだ。むしろ、泣くことだけが自分を慰めてくれるようなものともいえる。
がっ、しかしっ
そんな彼らの前に参上したヘッシャーという男は、怒られそうだがキリストに見えなくもない長髪で、常に半裸。胸から腹にかけて、田辺誠一画伯ばりの斬新なタトゥーが入っている。そして、地球規模、いや、宇宙規模で行儀が悪い。しかも、彼にはいつだって激しいヘビーメタルがついて回る、最強のメタル野郎なのだ。暴言吐くし、すぐに爆破するし、燃やすし、ブッ飛ばすし、ぶち壊す。エッチな映像は観るし、酒もやるし、ハッパもやる。ヘッシャーは、自分の前に何かが立ちはだかると、暴言を吐き、爆破して燃やして、思い通りにするし、手に入れる。そして、彼の辞書に「クヨクヨ」は皆無だ。
少年と、その父、そして、人生を諦めた女は、普通に想定できる範疇を遥かに超えた男の風貌や言動に、ただただ口をアングリするだけだ。
しかし、不思議と少年T.Jの祖母マデリンはヘッシャーと居ると楽しそうだし、ヘッシャーもマデリンには優しい。それに、最初はアングリしていた他の3人も、徐々にヘッシャーの言動から何かを与えられる。
それは、最悪の人生にファックユーすることと、大丈夫だということ。
「これが自分に与えられた運命だから」と、心穏やかにすべてを受け入れられるならばいいけれど、なかなかそうもいかない。傷が深ければ、自分ではどうにもできないときがある。そんなとき、真似はできないが(注※真似してはいけません)、この映画を観て気持ちを晴らすことはできるはず。ヘッシャーは説教などしないし、まともなことは何ひとつ言わないし、言動も異常に近い。でも物語が終わるころには心を鷲づかみにされているはずだ。
ラストシーンは、タランティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス(2007)」を彷彿させる“明るい過激さ”がある。ちなみに、人生を諦めた女役はナタリー・ポートマン。また、ヘッシャーのモデルが、1986年に亡くなったメタリカのベーシスト、クリフ・バートンということもあり、映画での楽曲使用を滅多に許可しないメタリカの音楽が多数挿入されている。
映画と現実の狭間でROCKするライター中山陽子(gatto)でした。
メタルヘッド(2011)
監督 スペンサー・サッサー
出演者 ジョセフ・ゴードン=レヴィット/ナタリー・ポートマン/レイン・ウィルソン/デヴィン・ブロシュー