【スイミング・プール】
限りなく脱ぎっぷりがいい名女優が思考を惑わす映画
スイミング・プール 映画あらすじ
女性推理作家のサラは、スランプ気味で不満やイライラがたまっていた。
その想いを出版社の社長ジョンにぶつけるが、望むような返答は得られず、逆に、自分が所有している南フランスのプールつき別荘で、気分転換しながら執筆することをすすめられる。
別荘についたサラは静寂のなかで執筆を始めるが、そこに突然、ジョンの娘と名乗る若く魅力的なジュリーという女性が現れる。
奔放なジュリーの振る舞いに、サラの静かな時間はいとも簡単に奪われていく…。
スイミング・プール 映画レビュー
シャーロット・ランプリングにおいては、どうしたって若いころに出演した「愛の嵐(1973)」の印象が根深く残っている。
上半身は限りなく細い裸で、身に着けているのがナチスの軍帽に長手袋、黒いパンツにサスペンダーというその姿が女性というよりは美少年に近かったため、男女問わず魅了されたのではないだろうか。
倒錯した愛をエロティックに描いた「愛の嵐(1973)」は、デカダンス映画の決定版ともいわれ、映画史にその名を深々と刻んだイタリアのビスコンティ監督が絶賛したことでも有名だが、実をいうと、ランプリングの美しさ以外は不愉快な印象ばかりだった。
そして、正直にいえば、彼女が年を重ねてから主演した「まぼろし(2001)」も、そして、この映画「スイミング・プール(2003)」においても、その芸術的感性は少しばかり苦手なにおいがするグルメ料理のようだ。
つまり、経験のため、感覚を養うため観ておくけれど、すすんで観たいものでもない。
しかし、どうしたものか、数多い映画のなかには、興味が持続せず脳のシナプスがニューロンに接続しなくなり、記憶が迷宮入りしてしまう映画も少なくないのに、今作品を含めたシャーロット・ランプリング出演の映画は、驚くほど記憶のなかに、鮮明に残ってしまうのだ。
ランプリングは、若いときも、年を重ねてからも、本当に脱ぎっぷりがいい。
フランソワ・オゾン監督は「まぼろし(2001)」の解説のなかで、「彼女の年齢で、彼女以外に水着姿を披露してくれる女優さんはいない」というようなことをいっていた記憶がある。
いやいや、水着姿はおろか、その映画でも、今作品「スイミング・プール(2003)」でも、彼女はボロ~ンと脱いでいる。
それに、奔放なジュリーを演じたリュディヴィーヌ・サニエも、豊満なバストを惜しげもなく披露していた。
そのせいか、「スイミング・プール(2003)」は官能的と表現をされることが多い。
しかし、この映画は官能というショーケースで観客を惹きつけるが、あとから出されるサスペンスという商品の、パッケージをあけてこそ楽しめる作品だ。
それと同時に、想像を源とする職業の特異性を描いていると思われる。
物語のなかで、人付き合いの下手な女性推理作家のサラが、ひとり別荘で自分が書いた小説をプリントアウトして確認するシーンがある。
その地道な行動こそが紛れもない真実であり、あらゆる現場で活躍する想像者たちの姿なのだ。
ヨーグルトを食すだけのストイックな日常を送りながらも、ときに人のワインやチーズを盗み飲み食いしたり、はしたなく魅力的な若い娘に苦々しい表情を向けながら、自分も男を誘ってみたり…何度も何度も、節制と欲望と、空想と現実のあいだを行ったり来たりする。
「空想は知識より重要である。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」というアインシュタインの言葉がある。
この世界的に有名な理論物理学者の言葉を見聞きするたびに、文字を書く仕事を持つ自分でさえも、偉大なパワーをもらえる気がする。
そして、彼のその言葉は、この映画を言い当てているかもしれない。
出版社という、作家が強い立場にも、弱い立場にもなる相手に対し、「してやったり」のシーンは、この映画で唯一爽快といったところだろうか。
悲惨なまま観客の感情を放置しないし、同時に解釈の助けになる部分も描かれているので、解釈を観客にゆだねるヨーロッパの映画としては、親切なほうかもしれない。
なんにしても、スウィンギング・ロンドンの世代であるランプリングは、トレンチコートがよく似合っている。
ライター中山陽子(gatto)でした。
スイミング・プール(2003)
監督 フランソワ・オゾン
出演 シャーロット・ランプリング/リュディヴィーヌ・サニエ/チャールズ・ダンス/ジャン=マリー・ラムール
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